太陽の画家・三谷祐資
全長270m絵画は、ユーラシア大陸の文明の聖域を40代に3年かけて描き、それに続く日本の四季は50代の10年をかけて描いたのだが、まさかこんな大作になるとは夢にも思わなかった。初めに描いた一本の巨樹から増殖して描き続ける内に270mになってしまった。
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いつの間にか絵を描くようになり、50年ほど前に画家を仕事とすると心を決めたが、描くうちに「人間とは何か」という思いにかられ表現にも行き詰り、生の文化を見ようとヨーロッパからインドまで心の向くままに放浪旅に出た。今から思うと導かれるように進んだ旅だったと思う。ヨーロッパ文化からローマ・ギリシャ・エジプト・インドの文明の地を歩き数々の遺産に圧倒され、描く技法としては方向性が見えたが、人間とは何か、神とは何か、という疑問には、結論めいたものは何も出て来なかった。
描くテーマも技法も変化してゆく中で時が経ち、脳裏に一本の巨樹が立ち現われた。それを描いたが一本では広がりが無く、右に左にと巨樹を描く事で森になり、その森を見ていると旅したインドの巨樹と森が蘇った。そして、釈迦ブッダが悟りを開かれた仏教の聖地ブッダガヤへと続くイメージが固まり、日本に根付いた仏教の聖地として、ブッダの生きた時代を、その存在と自然を描こうと思い、10メートルほどの作品となった。
その作品を見ていると放浪旅の記憶が蘇ってきて、文明を辿るユーラシア大陸絵図のような構想が浮かんできた。単に遺跡を描くのでは余りにも感傷的で、旅した文明の遺産が残る地は様々な宗教の聖地でもあり、文明の根幹を成す聖域として描こうと、構想は2時間ほどで出来上がったが作品は全長100メートル、ほぼ毎日15時間描いたが完成までには3年かかった。
インドから西へ、夜のメソポタミアでは月を描いて遠く過去を想い、夜の砂漠やシナイ山、エジプトやネゲブ砂漠と少し中東も入るが、エジプトからイスラエルにかけてはキリスト教以前のユダヤ教の聖地を描いた。聖書の世界に踏込み映画で見た「十戒」のモーゼのエジプト脱出、アブラハムのカナンの地、聖書の冒頭で神が「光あれ」と言われてこの世に太陽が現れた場面を想い描いた。そして、エジプトからギリシャへ、太陽神ラーから太陽神アポロンに導かれるように、古代ギリシャの神話の舞台となったエーゲ海へと続く。その中にあるクレタ島は、ヨーロッパ最古のミノア文明が栄えた島である。両文明ともに太陽と自然を神として崇拝し栄えた。そして東へ、ガンジズ川からヒマラヤ、中国の黄山を描く事になった。ヒマラヤでは天空の神々の世界、中国では精神的なイメージで孔子・老子・孟子の想い浮かぶ風景にしたかった。
制作に本当に疲れたので100m描いて完結のつもりで発表したのだが、絵を見た方々から言われた、もう少しで日本ですねという声が何年も耳に残り、ある時、日本を描く事として脳が勝手に考え始めた。日本で何を描くのかと考えたが四季を描く事以外は考えられず、中心になるのは富士山だと、厳寒期の富士山へ向かい、四季の取材が始まった。そして十年間、春になれば南から北へと桜を追いかけ、ある時は山深く入り、海、山、川など日本中の自然の姿をスケッチして回った。四季の取材を始めたのはもう三十年以上前になるが、その取材中に自然の木の変化から温暖化を感じ、この美しい自然の姿が失われてゆくかもしれないと危惧し、今の内に日本の四季を絵に残そうと、思いのままに描いたら170mになっていた。
四季の自然を描くわけであるが、単に美しいだけではなく自然の中の命まで描けたらと思う。しかし、あまりにも絵が大きく単に描くだけでも大変な事となり、未だに描き切れていないと思う所もある。自然を八百万の神と見ている日本人として、海や川や山、木や岩、そして、一木一草にも神が宿る様な絵が描けたらと今でも思い続けている。
人間は自然を必要とする生き物であり、美しい景色を見ると人の心は安定する。自然は私達の体そのものである。そして、美しいものは人間を超えた存在であり平和そのものである。
私達は人類史上かつてない危機を迎えている。多くの文明が興亡したといっても、アトランティス、ムー大陸の話は別として、今より明らかに規模も小さく地球が滅ぶ事はなかった。文明の規模が大きくなるに従い、複雑になる社会の中で、環境変化の問題解決が難しくなり、文明が滅んでいったようである。耳の痛い話だが、今まさに地球上ではそうである。
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文明は生まれ栄え、滅びる。異民族の侵入、内乱、革命、自然災害や気候変動などに起因する。エジプト文明は我々の文明よりはるかに長いが、それでもアレキサンダー大王に侵略され、ローマの侵攻で衰退した。インダス文明も気候変動で砂漠化し、チグリス・ユーフラテス川流域に起きたシュメール文明の豊かな大地も、森林破壊と灌漑のし過ぎで塩害になり食糧不足、その上、他民族の侵攻で歴史から消えてしまった。メソポタミアの碑文に「黒い大地が真白になった」という塩害の記録もある。黄河文明は高度に発達した文明でも無かったが、他の三大文明と違い、エネルギー資源として石炭を発見し普及させる事が出来たから、今日まで細々と続いてきた。
今の文明は、感染症や温暖化に悩まされている。特に温暖化は深刻な問題である。農作物が取れなくなるなどの食糧難や水害、火災、そして、海面上昇を引き起こす北極海や南極の氷の解けるスピードが予測より早まり、シベリアの凍土溶解によるメタンガスの放出など数限りない。CO2より30倍危険だという報告もある。温度が上がるに従って住める場所がなくなってゆく。先送りしてきた付けが今、目の前に立ちはだかっている。未来を考えると、今の文明の価値観を考えなくてはならない。地球上に住めなくなる経済とは何か。食料が無いからといって経済を食べる訳にはいかない。お金があっても、他国にも食料が無ければ輸入する事も出来ない。例え有り余るお金があったとしても、当面はしのげたとしても、盗賊的になった人々からの略奪の危険がある。そして、国と国の戦争へと発展しかねない事である。先送りは危険である。
自然は財産である。どんな貨幣よりも重い。地球まで壊す過当競争は異常である。もう、危機は喉元まで迫っている。日本は世界の気候が存在する稀な国で、ユーラシア大陸の東端として世界の文化・文明が集まり、ひな形の国であると言えるのではないだろうか。いわゆるモデル国としての自覚が必要である。近年の地震や水害などは、日本から起こり世界に波及しているようにも思える。今まさに、日本から発信されねばならない。混乱が起きれば、富も略奪される事を考えると、人々はある程度平等でなければならない。幸せとは心配の無い事である。幸福度の高いデンマークは、国民が国家を信用している。誰もが心配の無い生活を送れる。イスラエルの集団農場キブツのように、財布を一つに集団生活して、生活への心配を無くすのも方法である。外来者に対しても優しく接してくれるのも、心配の無い表れだろう。
先に自然が財産であると書いたが、太陽が無ければ、食物どころか自然も空気も水も無い。自然が悲鳴を上げている今、私達は右往左往し、怖い、恐ろしいばかりで感謝をする事は少なくなってきている。産業の発達と共に、忙しさで自然は当たり前にあるものとなり、征服したごとき振る舞いへのしっぺ返しのように思える。自然を征服する事から、自然に感謝する事が温暖化をとめる第一歩と思う。 世界最古の文明は、縄文時代かもしれない。自然を神とし一万年続いたと最近の記録にあるそうだ。古来日本では、自然には木の神、山の神、岩の神、水の神と数限りない八百万の神が宿り、その神々と共にある自然に感謝して生きてきた。先人たちがやっていた様に太陽に感謝を込めて合掌して有り難いと思う心が、天にも通じる温暖化防止への第一歩ではないかと思う。そして、誰もがそれぞれの分野で、例え小さな変化でも、集まれば川となり、未来を変えていく社会になると思う。それには、ある程度平等で、安心して暮らせる世の中でなければならない。
コロナ禍で経済を止めればCO2の排出量は減るとわかったが、長く続くと飢えてしまう。労働とは何か、つらいものではどこかに悪いエネルギーが溜まり、はけ口ばかりの娯楽が増え、生きる事の意味さえも考えられなくなる。労働時間が短くなれば、少しは緩和されるのではないかと思う。近未来に必ず食料不足になるので、例えば、週の半分は休みにして自分の食料の為の農業をして半働半農生活ができるようにするとか、ボランティアで環境整備、福祉、教育を担い、その分税率を下げるのも一つと思う。そして、化石燃料の要らない生活を考えねばならない。私達は今、有り余る物に囲まれた豊かな生活の為に忙しく労働し、人にも地球に優しくない社会の中で、様々な不安と共に暮らしているように感じる。心配の要らない社会に変えていかなければならない。ウェルビーイングという幸福な社会を目指し、世界に尊敬される日本に発展する事を願う。
地球の温暖化が今ほど騒がれていない30年程前(1987年)、富士山から東北の十和田・奥入瀬まで、1ヶ月かけて海沿いを描きながら旅した事があります。9月の中頃に富士を出発し、10月中頃に奥入瀬に着く予定でありました。その時の紅葉が、みずみずしいはずであったのが、陽の良く当たる所の葉っぱの一部が茶褐色になってかれているのが所々あり、全体の景色を弱めている事に気付き、温暖化の影響かと感じたものでした。
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家に帰っても、犬の散歩の途中、夏ですが、公園の木葉が緑のまま枯れ落ちていたり、草が枯れたりと、真夏の中国を想いだしました。大陸的な気候になってきていると。日本の夏は公園とはいえ、蒸し蒸しとして雑草が生い茂り、決して枯れる事はありません。
自然の小さな囁きがきっかけで、『四季の国・日本』を描くことになりました。
日本を描くとしたら「日本の四季」しかない。美しい日本の四季の移り変わりを描こうと、10年前に描いたユーラシア大陸(全長100メートル)に続ける構想になり、発表も何も考えずに描いて7年、愛知万博への出品の話が持ち上がり、『自然との共生』の理念と合致して、名古屋駅に近いほうが良いと、入場も無料のささしまサテライト会場で6ヶ月間展示することが出来、多くの方に感動したと反響を頂きました。本当は題名を『美しい国・日本』としたかったのですが、自分で描いて美しいと名付けるのもてらいがあり、『四季の国・日本』としました。日本各地を10年かけて四季折々に取材し、7年かけて描いた長さが170メートルになり、自分でも苦業に驚きました。
自然との共生の愛・地球博は終わりましたが、私にとっての自然との共生はほんの第一歩であり、自然元年と名付けました。
子どもの頃から自然と共に生きていたので、なるべく海や山を生活の場にしたかったが、なぜか絵の道に進んでしまった。
1980年代頃から「太陽と月と自然」をテーマに描いていて、住まいは大阪・地下鉄御堂筋線の緑地公園駅から徒歩3分の住宅街、庭にはニワトリやカモ、ウサギ、小鳥、犬がいて、実にアジアンティックな家だった。家族がクーラーと相性が悪く、その頃にはどこの家にもクーラーがあったが、我が家は扇風機、アトリエの屋根にはヨシズを乗せ、平屋の母屋はヨシズで囲み、窓の外にはぶどう棚で、天然の日よけを作っていた。そして水は、町全体が地下水と水に恵まれていた場所だったが、マンションラッシュで河川の水が入るようになり、おいしくなくなったので、物件を探して宝塚へ引っ越した。
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向かいが3000坪の森と水に恵まれた環境に、家の中も見ずに借りた家だったが、12年後にその森もマンションになり、三田にアトリエと住居を一つにできる既存の大きな建物が見つかり、引っ越す事となった。
2005年、自然との共生がテーマの愛知万博に、「四季の国・日本」の展示も決まり、暮らしでも自然との共生を目指そうと、車は初代プリウスに乗っていたが、アトリエを兼ねた新居の屋根には8kwのソーラーを付け、農村部なので、自給自足を目指して小さい林を切り開き、農地に変え土作りをした。丁度170mの絵が完成して少し時間が出来たので、体力作りでもあった。これからは自給できなければダメだとオーガニック野菜を始めるが、ほとんど虫との戦い、草刈り用にヤギも飼うがグルメに育ち、なかなか思うように働いてくれない。クーラーも要らないかと思ったが、この頃の暑さは尋常でなく、来客の事を考えると最小限必要になった。
1階部分の50坪のアトリエが絵で埋まり、地下が傾斜地なのでグランドフロアーになるが駐車場にしていた所を、地中熱を利用して増築した。周囲が森に囲まれているので湿度が高く、夜間の電気を利用してクーラーで除湿しているが、日中は真夏でもクーラーもなく涼しい。室温は26℃止まりである。駐車場だった時に、敷地内で放し飼いしていた犬2匹が夏に涼しそうに過ごしていた事から気づき、利用した地熱だったが、大正解だった。
私のエコ住宅
「富士は日本一の山」という歌がありますが、子供の頃はよく歌っておりました。今はどうでしょうか。高さはそうですが、日本人の心の山であります。戦後の高度成長で経済活動が盛んになり、ゆっくり眺める事も少なくなったのではないでしょうか。便利になればなる程忙しいのも不思議な事です。
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富士山は一度、世界自然遺産にも申請しましたが、見送られました。私達の生活の現状をも富士山に映っている様です。富士山を見るというと、どうも上部だけ見てしまっているのですが、富士山に雲が掛かって見えない日に雲の下を見ると、樹林の深さと雄大さに圧倒されてしまいます。富士山が見えないからこそ見える雄大さがあります。富士山に当たった暖かく湿った海からの風が雲となり、樹林帯に降りてくる様子は、まるで竜が天から降りて来る様であり、その霧が木々を育て、深い森を造っています。地平線まで続くなだらかな稜線の樹木は、静かで深く神秘的です。
横山大観先生は、「富士山には見る人の心が映る」と言われました。確かにそうで、見る人の心が映る山であります。無数の色々な木々は、我々の数程あるのではないでしょうか。我々が木で、富士山を中心に生きているようにも見えます。
又、私達は富士山に雲さえ掛からなければよく見えるので、当たり前の様になっていますが、例えばヒマラヤのエベレストですが、そう簡単に見えるものではありません。まず、ネパールの首都カトマンズーからチャーター機に乗り、ナムチェという村(富士山の頂上位の標高)に着き、すぐに見えるかと思いますが、そこから歩いて五千メートルまで山を登り、酸素も薄くなり、やっとエベレストが見えるのです。一つだけの山ではなく、横にローツェやヌフツェと山群になります。考えてみますと、三千メートル程しかエベレストは見えないわけで、我々が日常見る富士山と変わらないのであります。
富士山は老若男女誰と言わず、見たい心があれば日常の生活の中から見える、日本人に与えられた崇高な山、云わば心の山であります。春は菜の花畑から夏は田んぼ、桜に紅葉、海から山から、家の中から、新幹線からでも見える山です。そんな日常の美しく生きた世界から見える山は、富士山を置いてありません。手を合わせても余りある奇跡の山です。
-世界遺産に願いをこめて-
富士山は自然遺産申請から文化遺産申請になり登録されました。
即ち、日本人の信仰と文化にまつわるものと言う事でありますが、富士山の五合目以上で下界は外されました。この事を何と考えたらよいのやら。日本も世界も危機を迎える今、富士山が世界遺産登録され、改めて日本人の心としての山を中心に、私達が自然の中に生かされている事に気付き、日本と世界の自然が蘇る様、温暖化防止に向けて世界貢献してゆくその時、それが本当の意味で『美しい国・日本』になるのではないかと思うのです。
富士山を描く
厳冬富士眺雲 50号変形
随分と合理性の元に失われるものも多く、自然を考えなくなったのが、自然と人間の関係をおかしくしている原因だと思うのです。特に日本人は豊かな自然の中に住み、四季折々の美しさや季節の移り変わりの中に「もののあわれ」や美しい情緒や繊細さを持ち、古来様々な世界にも誇れる文化を持っていた民族だと思うのですが、昨今の日本は何か合理的経済性ばかりで、繁栄はしましたが、自然からは見離されていくという危うい状態です。
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世界にも稀な四季の国であるという実感が無いというか、あまり考えた事がないというに等しいと思います。
日本の四季は、インド・ベンガル湾で暖められ湿った空気が上昇し、ヒマラヤに遮られて偏西風に乗り、アジア・日本まで運ばれ湿気をもたらし、冬はヒマラヤによって遮られたモンゴルや中国北部の冷たい乾いた空気が偏西風によって運ばれ、春夏秋冬という世界にもまれな四季を織り成している、まさに奇跡に近い所に住んでいて、毎日手を合わせても余りある幸せです。
20代に読んだ和辻哲郎の「風土」がやはり衝撃だった。
日本とヨーロッパの違いなど、文化の違いくらいしか考えなかったというより西洋の美術・絵画を学ぶのが精一杯で、まして風土を考える余裕などなかった。その事で後程、油絵から遠ざかる事になるのだが。
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30代になってヨーロッパからインドまで旅した時、その事を実感させられ、風土・自然に逆らっては文明もいつかは衰退してゆくものなのだということがわかった。日本は、夏は雨季で冬は乾季だが、全般には湿潤な気候である。ヨーロッパは、夏は乾季で冬は雨季である。全般にカラッとしている風土である。
日本では夏、農村部へ行くと雑草との戦いで休む間もない。それに比べヨーロッパの夏は、雨が少ないし気温も比較的低いので雑草があまり生えず牧草は豊かだし、冬は雨が多いので牧草も生える。従って家畜を飼うのに適していて肉食になった民族で、極端に言えば、だから油絵が発展したかとも言える。かといっても油絵の油は植物性の油であるが、ギラギラしたものに対して抵抗が無いからかもしれない。日本人は元々、淡白というかサラッとした文化を好む。
世界の色々な文化は自然抜きには考えられなかった。水が無ければ文化どころではない。衣・食・住から文化まで風土によって生まれた。現代はグローバル化されていて、結局それぞれの風土によって生まれた文化がないがしろにされ、その民族が長年に渡って培ってきた文化までも衰退する傾向にある。又、日本には地方によっても伝統の違いがあり魅力を発見するのである。けれども最近は地方の駅に降りても、東京と同じ町同じ建物同じ店と画一化され、味気なくなってきている。
司馬遼太郎先生の貴重な話があります。フランシスコ・ザビエルの話ですが、先生が取材でザビエルの生誕の地スペインに向かわれた時、「私共は飛行機で一気に飛び、しかも大気を汚して行く訳ですが、ザビエルは帆船でしかも命がけで日本まで布教に来た訳です。」そのことを想うと、私共は何と罪の重い人間なのかと感じられたと、要約するとそのような話です。私も同じですが、取材の為とはいえその事に値するのか、という気持ちはとても大切な言葉で、私も大気を汚す事は極力少なくし、この言葉を座右の銘にして、感動を伝えられる仕事をしなければと改めて想います。
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それから松島に行った時ですが、松島を見下ろす高台に「西行呼び戻しの松」があり、案内板を見ますと、「西行は松島まで来て松島を見ずに去った」とあるのです。その当時ですから徒歩の旅ですが、ここまで来て、さあ夢にまで見た松島の景色を眺めようとした丁度その時、牛飼いの男が牛を引きながら歌を詠むのですが、その歌は牛飼いの男が作った歌ではなく誰か先人が作った歌でしょうが、今はどのような歌かはわかりませんが、自分はその牛飼いの男の歌った歌にも劣っていると感じて、見る資格も無いと松島を見ずに去ったという事です。何という覚悟かと心打たれます。
私共は今は電車か車で行く訳ですが、余りにも目まぐるしく心がついて行かない状態です。本当に奥の細道などを味わうには、汗を流して無になって歩くことでしょう。そうしていると、自然に私共も芭蕉や西行になれるものではないかと思う時があります。もっと若い頃は電車も使いましたがリュックを背負い、てくてくとよく歩いておりました。野宿をした事もあります。そうして自然の中に抱かれ、自然と牛飼いの男ではありませんが、奥の細道を歩いているといつしか芭蕉になっているのです。
スローでないと、日本の素晴らしい美しい情緒は本当の理解は出来ないし、自然の中に入っては行けない。真っ暗な夜道や何が出て来るかわからない、恐ろしい時もありますが、その時の覚悟というものが必要だったと思うのです。そして和らげてくれるのは、自然に抱かれているという気持ちです。
最後に、自然や風土と人間とは表裏一体であり、人間の乱れる時は自然も乱れ、災害や不安が広がり世の人の心も乱れ、美しい情緒を感じる間も無く弱肉強食の無責任人間を生み出す昨今、国家の品格まで失いかねません!
以前読んだ本に「国家の品格」というベストセラーがあります。その中で「美しい情緒やもののあわれや日本人の持つ良き繊細さ」など日本人の特性が書かれていて、何かを見失った日本人のバイブルにしたいと思いました。そして武士道精神についても興味深い話が書かれていて、日本人の失った精神の多さに改めて考えさせれられます。そして日本人の倫理観を述べておられ、ぜひお読み頂きたい本であると思います。
奥入瀬にて
170m絵画「四季の国」より 夏・奥入瀬
太陽の取材等で色々な国に行って感じる事は、宗教は風土によって育てられ根付くという事です。宗教はいつの時代にも必要だと思います。宗教を必要としない方もおられますが、それは儀式的なことで人間から宗教心を抜くとただの動物になってしまうそうです。
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エジプトからイスラエルまで新約・旧約聖書の舞台を歩いた時ですが、灼熱の砂漠ではイエスかノーか即断で決めなければ生きてゆけない過酷な地で、年間の雨もほとんどありません。そんな地からユダヤ教が生まれキリスト教・イスラム教に別れ、同じ兄弟ですが今は争いが絶えません。いかに元に戻す事が難しいのかを物語っています。
日本のような八百万の神が生まれなかったのは、自然が豊かでなかった事と、生死を分ける過酷な地では一神教でなければ生き延びることさえ出来なかったからではないでしょうか。日本人のように朝日を再生と感じることも無く、灼熱の太陽は死さえ意味しますから、聖書での一日の始まりは日没、つまり夕刻が一日の始まりなのです。
どうしても荒々しく、食べる事を申しますと、羊を主食としますから、羊を食べる為にもどの羊にするかはっきりさせねば、日本のように曖昧である事は許されませんし、一神教の契約ですから他の神は許されません。これが根本で今も流れているようです。
インドで生まれた仏教もなぜインドで広まらずに日本やその他の地域に根付いたのかと考えますと、仏教の戒律が風土においては厳し過ぎたのかではないかと思います。それより今のインドはヒンズー教徒がほとんどですが、暑過ぎる国では生きる事さえ過酷で、生殖の神を主とする大らかな神が風土に根付いたのではないでしょうか。
シルクロードを通って入った仏教も、時の権力と結びついて広まって行ったのですが、権力が無ければ仏教が入らなかったかもしれません。それ以前の神道においては、入る余地もなく、世の乱れに乗じて必要となった事ではないでしょうか。それが日本の風土の中で互いの守りとして発祥してきた
日本には八百万の神、全ての中に神があり、豊かな自然の中でこそ芽生えた湿潤な教えかと言えますが、神が自然を創ったのか自然が神を創ったのか別にしましても、全ての中に神が存在する教えである事に変わりはなく、一つ一つの神に感謝申し上げていたら一日では終わりません。結論として、全ての事に感謝しましょうという事ではないかと思うのです。
自然との共生が地球上で言われておりますが、日本で京都議定書を作りリードしていくのは、技術面でも優れている事もありますが、元々日本人には自然神・八百万の神が内在していて、西洋的に自然を征服する時代が終わり、自然と共にある日本的な考え方の時代を迎えているからではないでしょうか。これは好む好まざるの問題ではありませんし、貢献しなければ生き延びる事も出来ません。自然の流れなのです。
インド・ブッタガヤーにて
ヒマラヤ彩空 50号変形
朝日の取材は特に大変である。家から出かける範囲だと朝の2時起きの時もある。ただ偶然に気の向くまま行けば良いというものではなく、まず調べられる範囲はそれまでに方々の手を使いながら、おおよその当たりは付けて地図を頭に入れて、朝日の方角を考えながら鳥瞰図的に考える。自然の中には山あり谷ありと制限があり、その事も考慮に入れながら、常に天気図を考え最後には勘である。必ず方位計を持ち、まだ星が輝く頃から太陽の位置を予測する。それも風景の美しい場所と情報の無いところもあり、奇跡に近い時もある。何しろ感動が無いといけないのだから。宿泊する旅行中の時は、前日の日中に行って調べる。外国の場合は特に大変で、ガイドが必要になる。行く前に前もって行きたい場所の計画を練って貰うのだが、その為の資料をガイドへ送るが届くと限らず、折角送っても届いていない場合も多い。日本のようにすんなり届くことは少ない。
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ガイドは朝日の絵・夕日の絵を描く取材と伝えると、昼間は休息と、誰しも楽に思っているらしく、2・3日もすると昼間に休みが無いことに気づき、ガックリきているようだ。というのも、昼間は準備つまり次の日の朝日と夕日を取材する場所へ行って確認する為にあるからである。距離のある場合も多く、朝は暗い内から、夜も月の取材に出かけることもある。さすがに夜はガイドも疲れるので自力で行くが。ガイドを褒めたりなだめたり、サービスも忘れないが、時には圧力で迫ることもあるので1週間位経つ頃にはくたくたになる。これが何週間も続くのだから。
特に外国は治安の悪い国では、警官をお願いしてという事もある。危険とは隣り合わせ、イスラエルなどは行ける時のほうが少ない。帰国して2・3ヶ月して今の状態になってしまった。世界で最も出入国の難しいテルアビブの空港は出国の時は3時間も前に行き、手続きには2時間位かかり、出国の飛行機に間に合う合わないに関係なく調べられる。キリスト教発祥の地がこうで、お釈迦さまの国も治安が良くない。どうしてかわからないが、月日が流れただけではないと思う。普通は夜の方が治安が悪いのだが、朝から治安の悪い国は貧困過ぎるというか、食事も満足にできない状態で言い様が無い。富の格差が有り過ぎるのである。飽食の国からは考えられない事であるが、私達は幸せな国に生きているとつくづく思う。
けれども暗い大地より昇る太陽は、そんな矛盾と不安を打ち消すように、感動と希望を与えてくれる。
イスラエル(ゲネブ砂漠)にて
バルビゾンの晩秋 30号変形